地域情報

名古屋市の歴史的発展・地理的環境
名古屋の歴史的考察
 
名古屋の町の成立は比較的新しいものです。
1610年に家康が築城を命じ、1615年に徳川義直が入城したのが起源になります。
同時に清洲城が廃城となったので、清洲城と城下町が名古屋城に移転しました。

なぜこの場所が

名古屋城を築城した目的は大阪方の防止である。
名古屋城のある場所は、名古屋台地と呼ばれる台地にあり、北側が絶壁であった。崖下の今の名城公園の辺りは湿地であった。(水を湛えるお堀は今でも地下水が自噴しています)

城下町名古屋

名古屋の城下町の特徴は碁盤割である。
  (これは京都・奈良の条里制と同じである)

江戸末期の名古屋の町の広さは、
北は  西区の弁天通まで
南は  本町通に沿って熱田まで
西は  江川まで(江川は現在暗渠になっているので堀川の向こう岸まで)
東は  徳川園・建中寺あたりまで・覚王山は当時の別荘地であった。

名古屋の発展

名古屋台地の発展は昭和初期にはほぼ限界に至った。
東は東山丘陵の際まで・北は庄内川まで、南は熱田から先の海が埋め立てられ、港が作られた。西は田園地帯が残されたが、都心からは東海道線の盛り土と笹島駅(貨物ヤード)で隔てられていた。

戦後・焼け野原となった名古屋の町に巾広の道路が作られたが、この碁盤割と名称はそのまま残された。
そして、町が広がっても碁盤割りはそのまま延長された。
  ここまでが、市内を縦横に動き回れる範囲であり、病院や交通網が整った地域になります。

現在の地名に直すと、北は庄内川まで、東は今池から笠寺に至る道路、南は国道1号線、西は東海道線です。

マイホーム用地として東山丘陵の奥の山々や、庄内川の北側が開発されるたが、橋なり谷間なりのネックポイントを通る事となった。
国道1号線から南は、明治以降の埋立地で、伊勢湾台風の被災地と重なります。

名古屋の中心

江戸の頃は本町筋が中心でした。名古屋城正門から大須観音を通って熱田神宮に抜ける道路です。
明治の始めには県庁のあった栄町が中心になりました。
昭和初期には、名古屋駅前・本町・栄町が中心でした。

現在は、名古屋駅・伏見・栄、と新しく金山駅が中心となっており、その広さは半径1kmぐらいです。

偉大な田舎・名古屋

名古屋の町を支えているのは工業生産力です。昭和の初期には工場とその社宅がひとつの町を構成し、その集まりが点在して名古屋の町を構成していました。都心の商業地といえど中心から1KMもありません。

自宅を持つとなれば別ですが、賃貸住宅では、職場から20分以内の生活が十分可能な町です。

地下鉄のラッシュは、東山線がひどいです。郊外の新興住宅地にわざわざ住む人が増えたからです。
車での渋滞は、橋と山の谷間と踏切が原因です。ラッシュの時間は電車もラッシュなのです。

新たな傾向

高度成長期に都心の地価が上昇すると名古屋でも市内となった土地の工場が郊外に移転するようになりました。(サッポロビール・ノリタケチャイナ・東芝)
その跡地は分譲マンション・ショッピングセンター・賃貸住宅になり、都心に近いインフラの整った住宅地として注目されています。


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余言

*信長の生まれた場所は名古屋城ですが、廃城になってしまいました。
清洲城や古渡城が重宝されました。それは駿府の今川家が仮想敵であったからでしょう。


木曾三川を背にさせて城とで挟み打ちにする。
庄内川と湿地帯で城攻めを困難にさせる。
これらは名古屋城の北面と西面の守りとなる。
東側は東山丘陵があり間道は細く、大軍の移動は困難である。

お城から熱田神宮の間を兵站地にできる。
南側の熱田には港(宮の渡し)があり、補給路となる。

明治になり、鉄道が引かれると、火を吐く汽車は市街地に好ましくないと、線路は名古屋の郊外を走り、名古屋駅も郊外に作られました。
また海上路の宮の渡しの代わり、海岸沿いに国道1号線が桑名まで整備された。